『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』の劇場版が2度の延期を経て9/18(金)に公開された。
個人的な話を少しさせてもらうと、TVシリーズも外伝映画も後追いで観たため、悔しさや悲しみとは言い切れない、形容しがたい感情をずっと抱いていた。
しかし、あの事件があったため、公開は当分先になるだろうと考えていたし、自分がどんな状況にあろうとも観るという強い気持ちもあった。ただ、京都アニメーションを中心に、制作に関わった方々のご尽力もあって公開は思ったよりも遥かに早いタイミングで、幸運なことに劇場版は公開日当日に観に行くことが出来た。
劇場版は『ヴァイオレットとユリス』・『ヴァイオレットとギルベルト』の物語が平行して描かれ、最終的に”ヴァイオレットとギルベルト”の物語へ収束していく。そして、本筋に挿入される形で少し未来のお話が序盤・中盤・終盤に描かれる。
この未来のお話ではTVシリーズ第10話で登場したアン・マグノリアの孫である、デイジー・マグノリアが祖母から母に宛てた手紙を読み、手紙を書いたヴァイオレット・エヴァ―ガーデンのことが知りたいという動機でC.H郵便社やエカルテ島を訪れた様子が描かれた。
初見時には「お涙頂戴のような手を使ってしまうのか。」とやや残念に感じたが、それが非常に浅はかな考えであることに気づかされたのだった・・・
何故このお話を描いたのか。
それは、今を生きる私たちと接点を持たせたかったからではないだろうか。
ヴァイオレット・エヴァ―ガーデンという少女に興味を持ち、原作小説やアニメを通じてその足跡を辿る。C.H郵便社のモデルとなった京都文化博物館を訪れた方も少なからずいらっしゃったと思う。
デイジーも私たちもヴァイオレットがあれからどのように生きたかを知るすべはない。
はっきりとは描かず、断片的な情報があるのみだ。
でも、彼女の未来に想いを馳せ、「きっと幸せに生きた。」と信じている。
大切な人へ想いを伝えることの大事さを改めて実感させてもらった。
さて、本筋の話に戻ると、序盤はエリカがオスカーへ弟子入りしたことや、電波塔の完成間近な様子に代表されるように電灯と電話の普及など、未来を感じさせる描写がある。その一方、ヴァイオレットやディートフリートは過去に囚われたままである様子が描かれている。
そんなヴァイオレットにユリスという少年から代筆依頼が舞い込む。不治の病に侵され余命幾ばくも無いユリスは、本心と裏腹に両親や弟に対してきつく当たるが、両親や弟に手紙で本心を伝えたいと思い、代筆依頼を出したのだった。
想いを伝えたい人がもう1人いるにも関わらず。
一方、ギルベルトは元々敵国の占領地であったエカルテ島で子どもたちに勉強を教えたり、農業を手伝ったりすることで贖罪を続けている。
ある時、とある子どもから代筆を頼まれる。戦争に行ったきり帰ってこない父親宛てに手紙を送りたいと。
断わりきれない優しさや怪しまれるという危惧、そういったものが頭によぎったかもしれない。ただ、軍人として敵国の人間を数多く殺してきたという罪の意識が代筆を受けた理由であり、この手紙の代筆がきっかけで居場所が判明することとなる。
ギルベルトは、自分が傍にいては彼女を幸せにできないと考えているため、生きていることを誰にも明かさず、会いに来た際にも突き放すような態度を見せる。
誰よりも大切に思う気持ちを覆い隠して。
人殺しという業を背負わせた負い目やブーゲンビリア家を継ぐことが枷になっていた。彼女を戦場に戻してしまう可能性があることをとにかく恐れていたのだ。
ユリスとギルベルトは2人とも本当に想いを伝えたい相手には及び腰なのである。嫌われたくない、失望されるかもしれない。そんな気持ちが先行してしまう。
そして、ヴァイオレットも同様に「何を話せばよいのか」「おかしくないでしょうか」と、会って話せるかもしれないという可能性を前に戸惑いを隠せない。
不安を溢すそんな彼女に「手紙を書いてみたら?」とだけ伝えたカトレア。
下手に慰める訳でもなく、その場で答える訳でもない。本当の優しさと信頼を感じて、なんて素敵な大人の女性なんだと惚れ惚れした。
全体を通して第10話との対比や共通点がいくつか見られたように思うが、最も前面に表れていたものは親子愛であった。
第10話はアンの母(親)からアン(子)への想い、
劇場版はユリス(子)から両親(親)への想いが主に描かれていた。
ここに弟のシオンと親友のリュカの存在が加わることで、物語にさらなる厚みをもたらしている。弟のシオンはまだ幼く、兄からの手紙の内容は恐らく理解できていない。
これはギルベルトと幼きヴァイオレットの関係性を少し重ね合わせたのではないだろうか。ブーゲンビリア兄弟との重ね合わせも意図していると思える。
TVシリーズ第3話(ルクリアとスペンサー)における兄妹の関係性に加えて、ディートフリートから弟への想いを聞いたことで、ユリスがシオンに宛てた手紙を書くことができた。
”初めての”代筆経験がここで生きてくる。
見事な脚本としか言いようがない。
そして、親友のリュカに対して手紙という形では叶わなかったが、電話で想いを伝えることができた。この一連の場面では、電話という技術の進歩があったからこそ、お互いに想いを伝え合えられたのだ。代筆業が廃れていく要因となる電話の価値をアイリスが認めるところに感動的なポイントがある。
カトレアが言っていたように、代筆業という職業はいつか終わりを迎える。だが、悲観的になることはなく、誇りを持って"今"を生きている。
代筆業という職業が存在した事実は消えない。手紙も同じだ。ここであの言葉が思い出される。
『してきたことは消せない。でも……君が自動手記人形としてやってきたことも、消えないんだよ、ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
P.S.
演出面で気になったことをここでいくつか列挙する。(専門的な話は皆無)
・序盤のヴァイオレットは右端に寄った位置であることが多く、大きな空白はギルベルトの不在を強く感じさせる。
・ギルベルトも同様に右端に寄った位置に立っていることが多い。
(これは重ね合わせの意味もあると思える。)
・終盤でヴァイオレットの元へ向かう際には、画面左方向へ途中で転びながらも全力疾走する姿に胸を打たれる。離れていた距離を彼が必死に埋めようとするように思えて。
(ギルベルトの元へ走って船から飛び降りるシーンは、行動する方向が同じだが一度は彼に拒絶された場面と心境が異なる。)
・ギルベルトが号泣するヴァイオレットを抱擁するシーンは、第10話でのヴァイオレットが泣きじゃくるアンを抱きしめたシーンを彷彿とさせる。
(画面左方向へ走ったアンとそれを追いかけたヴァイオレットという構図の逆ともいえるかもしれない。)
・電話口で不服そうな態度が声に出ていたアイリスとそれに対するカトレアとのやり取りは、後々のユリスとシオンの電話でのやり取りに重なる。
・冒頭のマグノリアの家では老朽化が進んでいることが伝わるように床が軋む音が鳴っている。
・海上での記念式典で海風にたなびく髪や衣装の細かさ、自然さ
(相変わらずああいうシーンでは細かいところ動かし過ぎで流石の京アニクオリティ)
・ラストシーンでヴァイオレットが腕を動かすたびに機械音がしっかり入っている。
最後に、劇場版で一番涙が止まらず、毎回泣いてしまうシーンがある。
ユリスが「良かった」と嬉しそうにする姿に胸が締め付けられる。
綺麗事と片付けてしまうことは簡単だが、自分が同じ状況にあったら同じように幸せを喜べるだろうか。
感想は以上です。
ではでは